プロフィール

はじめまして、BabyJです😊。

アラカンシングルマザーです。アメリカ人と結婚して離婚、黒人ハーフの子供がいます。

国際機関や国際NPO、海外留学予備校、大学、出版社、大手企業などで、30年以上、海外や外国人を相手に英語を使う仕事をしてきました。

留学したのに英語が話せない

そうは言っても、最初から英語がペラペラだった訳ではありません。

中学の頃から、英語が好きで、外国や国際的なことが大好き。英語が好きな多くの人の例に漏れず、夢は通訳者や翻訳者になることや国際的な団体や会社で働くことでした。

でも、いくら英語が好きで学校の英語の成績は良くても、外国人とは話したこともなかったし、話す機会があったとしても、生の英語は全然聞き取れず、しどろもどろ、そんな状態だったのです。

日本人にはありがちな状態ですよね。

27歳でアメリカの大学に入学

実は、私には、「英語が話せるようになりたい」ということ以外に、もう1つ夢というか目標がありました。

それは大学に行くことでした。

高校卒業後は専門学校に行き、卒業せずに途中で就職。紆余曲折する中、大学に行かなかったことを後悔し、今からでも行こうと決意。

そして、どうせなら、好きな英語や国際的なことで有名な上智大学に行こうと決めたのでした。

さらに、上智大学には帰国子女入試なるものがあって、海外の正規課程を(高校や大学)最低1年間終えていれば、「帰国子女」枠で受験できることを突き止めました。しかも、海外で取った単位を移行することができるとのこと。※今はどうかわかりませんので注意。

それなら、まずアメリカの大学に1年生として留学して、そこから上智大学を受験して、2年次から編入しよう、と目論みました。

そして、実際にそのとおりに実行したのです。

大学選びから、願書の提出、受験準備、推薦状などの必要書類の提出、渡航準備など、アルクの「留学辞典」を参考に、全部自分でやりました。代行業者を使うお金の余裕がなかったからです。

英語は全然話せなくても、英語の試験は得意。読んだり書いたりすることはできるからなんとかなったのです。

留学したのに英語が話せない

晴れて、自分が選んだマサチューセッツ州の私立短期大学1年生として入学。留学生活が始まりました。この時、私は27歳でした。

しかし、結局、最後まで英語は話せないままでした。

英語の授業についていき、レポートを提出し、試験をこなし、単位を取るためには、毎日、朝から晩まで勉強せねばなりませんでした。留学生は皆そんな状態でした。

なので、週末はいつも図書館。たまにパーティーに出かけても、ラブラブなアメリカ人カップルを尻目に、日本人同士固まっているだけ。

結局、1年後は、英語が話せないまま、アメリカ人の恋人も仲の良い友達もできないまま帰国しました。日本人と仲良くなっただけだったのです。

英語ができないのに英語の仕事

英語が話せなくても、計画通り、上智大学には2年次に編入合格。帰国子女ではないのに、帰国子女と外国人がほとんどの比較文化学部での毎日がスタートしました。

比較文化学部では、授業もその他の学校業務も全て英語です。いわば、日本にいながら、留学生活の延長に近い状態で過ごせるのです。

そして、ここで思わぬ副産物が。そのおかげで一気に英語マスターへとジャンプすることになったのです。

上智大学の比較文化学部の学生だというだけで、周りの人から「帰国子女である」「英語がペラペラである」と認識されるらしく、いろいろ英語の仕事が舞い込むようになりました。

そうです。かつて憧れていた英語の通訳や翻訳の仕事などです。

そして、馬鹿な私は、そう思われることに気を良くして、英語が話せず、到底、通訳や翻訳ができるレベルではないのに、全ての仕事を引き受けたのでした。

結果は当然、ズタズタです。

けれども、仕事として英語を使わねばならない状態に置かれたことで、何度も失敗を続けるうちに、気づいたら英語が使えるようになっていました。

英語漬け生活の実践

留学前も、英語が話せないまま帰国した後も、上智大学に通っていた時も、常に心がけていたのは、「英語漬けの生活」です。

顔を洗いながら、歯を磨きながら、英語のニュースやストーリーを聴く。電車の中では、行きは日本語の新聞やNewsweekの日本語版、帰りは英字新聞やNewsweekの英語版をラインマーカー片手に読む。読みながら、自分に質問して1人会話をする。

道を歩いている時は、Walkman(当時はWalkmanが大流行でした)を使って、単語や文章のシャドーイング。

苦行とは思わず、「これが生活のパターン」という感じで、毎日何年もやっていたのは、好きだからでしょう。

アメリカの大学で朝から晩まで勉強して詰め込んだことや、毎日日本で繰り返し学んでいた英語が自分の中で蓄積されていたのだと思います。

その蓄積があったら、ある日突然、気づいたら話せていた、ペラペラになっていた、という状態になったのでしょう。そう思っています。

国際恋愛のはじめ|エキゾチックな黒人が好き

やっとここで国際恋愛のお話に入ります。

昔から外国人や交際的なものが好きだった私は、同じような趣味の友人と一緒に、よく「国際交流パーティー」に行っていました。

そこである日知り合ったナイジェリア人男性をきっかけに黒人が好きになりました。彼は、ナイジェリア大使館の一等書記官で(ちゃんと名刺あり)、濃い顔立ちでちょっと強面な感じでしたが、エキゾチックな雰囲気に惹かれてしまったのですね。

彼は実は妻帯者だったことを突き止め、すぐにおしまいになるのですが、これをきっかけに、黒人以外には興味がない、目もくれない、というくらい黒人一直線となりました。元々昔から黒人の音楽が好きだったということもあります。

最初は、アフリカが好きだったのが、途中でアメリカに変更。アフリカは文化が違い過ぎるし遠すぎる。アメリカ人の英語の方がネィティブで良い、と気づいたという単純な理由。

それからは、本当に多くのAfrican American(アメリカの黒人)とお付き合いしました。

どうやって?

その頃、外国人の間で一番メジャーだった情報誌Tokyo Classified (後に、Metropolis)の”Women looking for men”に広告を掲載したのです。マッチングアプリなんてなかった時代です。※六本木や麻布のレストランなどに置かれていました。

しばらくして、Tokyo Classified (Metropolis)は、誌面ではなくネットになったため、より効率的に良い人と出会えるようになりました。※当時、ネットにアクセスできる環境&知的レベルの人は限られていたためです。

夢だったAfrican Americanとの結婚と離婚

私は、African Americanと結婚して、黒人ハーフの子供を持つことが夢でした。

けれども、誰と付き合ってもダメになる、の繰り返し。もう黒人は諦めて日本人にすれば?と母親に言われる始末。

が、夢を諦めずにいた結果、とうとう、今までで一番素敵な相手と、3年の交際の末に結婚しました。私はこの時、42歳、彼は3つ年下でした。

彼はゴスペルシンガー。とても優しく愛に溢れた人で、付き合っている間不安になったり、メンヘラになったりする必要など一度もありませんでした。毎日、連絡をくれて、愛していると言ってくれる人でした。そして、とても心の優しい人でした。

にも関わらず、そんな結婚生活も3年で終止符を打ちました。

悪かったのは私です。一言で言えば、私は子供だけに愛を注ぎ、子供のことしか考えていなかったのです。いつも子育てに忙しく、疲れていて、結婚生活は面倒臭いとさえ思ってしまっていたのです。彼は愛ある結婚生活を求めていたのに。

離婚しても、喪失感や悲しみは感じませんでした。それよりも、子供に父親がいなくなったこと、「シングルマザー」「母子家庭」になったこと、自分がそういう立場になったことが嫌でした。

日本市場にデビューし婚活|でもモテるのは普通の人

離婚後、数年が経ち、子供のためにも再婚した方が良いのではないか?と思い立ちました。

そして、日本の結婚相談所に登録したのです。中高年の婚活で有名な茜会という相談所です。参考😅:【茜会】40歳以上、中高年・シニアの婚活・結婚パーティ多数開催!!

何故、突然、日本市場にデビューしようと決めたのか?何故、結婚相談所なのか?あの時、何故そうしたのか覚えていません。

何にせよ、「見た目は悪くないし、ずっと若く見えるし、きっとすぐ決まるだろう」そんな風に思っていました。楽勝だと思っていたんですね。

ところが、それはとんでもない思い違いでした。

自分がどんなに歳を取っても、日本男性が求めるのは、若い女性。そして、モテるのは、「普通の女性」なのです。

個性的で、国際派、英語ができますなんて言っている私は、テーブルの話題の中心にはなっても、これといった人からは連絡先を求められることもなく帰路に着く。

増えるのは、気の合う婚活友達だけなのです。

国際恋愛に復帰、今度はずっと年下の白人

やはり、私は外国人でないとダメらしい、とまた国際恋愛に復帰。

時代は、今やマッチングアプリ花盛り。外国人が使っているアプリを調べ、OkCupid、Japan Cupid、Bumble、Match.com、Coffee Meets Bagel, Pairsなど、様々なアプリを使ってみました。

が、私に取って、多くの意味ある出会いがあったのは、OkCupidです。

最初は、自分と同じ年代を対象に設定していたところ、良い人とは出会えず、マッチしてもどうということもなく消えていくという状態でした。

ところが、ある時、身長195cmで25歳のイケメン白人男性とマッチ。彼は、年上の女性とマッチングするために、自分の年齢を60歳と表示していたのです。※彼とは何度かデートし、その後、3年も交流が続きました。

今度は、設定をずっと年下に変更したところ、次から次へと年上女性が好きな若い男性とマッチ。もちろん、中には身体目的で興味本位の人もいますが、本当に年上女性が好きだったり、年齢ではなく相手を見る人も少なからずいるのです。

その後、30歳年下のキュートなアメリカ人(白人)と付き合うことになり、それからはずっと年下のキュートな白人男性にしか興味がなくなりました。

※ちなみに、ずっと年下の若い男性を恋人に持つ中年女性のことをクーガー(cougar)、相手の男性のことをトーイボーイ(toyboy/boytoy)と言います。

付き合った男性によって、好みが完全に変わるのは昔から。

今は韓国ドラマはK-POPにハマっているので、今度は韓国人男性とお付き合いして、韓国人以外は目に入らなくなるのでしょうか🤣?

メンヘラと執着を克服、国際恋愛相談開始

マッチングアプリでの出会いと付き合いではいろいろなことを経験しました。

相手から1日連絡がないだけで不安で何も手につかなくなったり、連絡が来ても絵文字がないとどうしたのだろうかと気に病んだり、相手の行動や対応に一喜一憂。

不安や不満をぶつけたことが原因で、大切な相手を遠ざけ、失ってしまったことが何度もあります。最初は相手が私を好きになってとてもうまくいくのに、最後は私のメンヘラから生じた行動によってダメになるのです。

昔、元夫に出会った頃は、連絡がないということがなく、メンヘラになる必要がなかっただけなのですね。本当は、自立しているようで実はそうではない。相手に執着してすぐに不安になるウルトラメンヘラだったのです。

私の恋愛の仕方は間違っている。このままでは同じことの繰り返し。

それからは、恋愛関係の本をたくさん読み、アメリカの恋愛コーチの講座を受講して、外国人男性の恋愛心理や行動や、女性はどうあるべきかについて学びました。そして自分を変える努力をしました。

多くの学びと経験の結果、今では、男性に振り回されることはありません。相手に執着せず、一歩下がって、冷静に見ることができます。

そして、自分にとって何が大切で幸せかを判断し、行動できるようになりました。

そんな経験を活かして、同じように、恋愛で悩んでいる皆さんの力になれたらと思い、国際恋愛相談を始めました。

国際恋愛と英語で拡がる世界

こんな風に紆余曲折で、ちょっと普通とはずれた人生。

でも、こうしたい、こうなりたい、そう思ったら、行動する。そうすれば夢を叶えられる。夢の近くに行けるのです。思った自分になれるのです。

英語や国際恋愛で自分の世界が拡がることを伝えたい。身を持って体験したことや学んだことを伝えていきたい。

そんな気持ちからこのブログを始めました。

このブログは全て、自分の実際の体験を元に書かれています。また、外国人男性の意見や海外の恋愛コーチやカウンセラーから学んだ知見も参考にしています。

外国人との付き合いや英語学習で悩んでいる皆さんのお力になれたら幸いです。

【資格】

  • 認定心理士
  • 全国通訳案内士(英語)[登録番号 EN00741]
  • TOEIC 955